
わきが 症例の知識
私は酒好きなものですから、毎晩のように近所の飲み屋に通い、「足が痛い、足が痛い」と嘆いておりましたら、そのうち下腹部まで痛みだし、女将さんから「早く病院に行きなさいよ、もう」などと本気で怒鳴られ、観念して、家からいちばん近い病院へ行きました。
秋口、私自身は、てっきり捻挫かなにかだと思っていましたから、最初は整形外科を受診しました。
診察にあたった医師は、話の途中で、いきなり素っ裸になれというので、しぶしぶそうすると、一見しただけで私の病気を察知したのでしょう。
すぐ家に帰って入院の支度をするよう命じられました。
そのときは左足が腫れているのを指摘されただけで、病名をはっきりいわれたわけではありませんが、ちらっとのぞき見たカルテの走り書きに、「深部大静脈血栓症」とありました。
「やっかいな病名だな、捻挫どころじゃないな」と、嫌な予感がしました。
入院して泌尿器科に移されましたが、検査設備が十分でないという理由で、20日ほど後に別の病院に移りました。
文字どおり、病院から病院への転院でしたので、家にも帰してもらえませんでした。
そこでの入院生活はまさに検査ずくめで、万全を期するために外部の検査機関でダブルチェツクをおこなうという念の入れようでした。
検査完了につき退院。
その3日前に「前立腺がん」という怖い病名を頂戴しておりました。
がん宣告のあった日のことは、いまも脳裏に刻み込まれております。
すでに手遅れで手術不能、残念ながら助からない。
そうはっきりと告げられました。
家内をよんでくださいというので、気が弱いからと勘弁願うと、医師は「なにをいっているんです」その十数分後、部屋から出てきた彼女はまさに顔面蒼白。
押し黙ったままで声のかけようもなく、そのうちボロボロと大粒の涙をこぼし始めました。
なにをしてもしょうがないので、私は彼女の横に座って泣きやむのを待つしかありませんでした。
カルテをのぞき見たときから、私自身は内々で覚悟しておりました。
「ああそうか、やっぱり」というくらいのものです。
確実に死ぬと非情な宣告をしておきながら、その医師は「ただし、時間はある」と淡々といいました。
なぜなら「前立腺がんは進行が遅いから」と。
私は、その時間がどれくらいのものか聞きませんでした。
いや、聞けませんでした。
これから楽しみにしていたことがすべて無に帰してしまうようで怖かったのです。
おそらく家内はその時点で余命を告げられたに違いない、と思いました(あとで2か月くらいと聞きました)。
退院の前日はクリスマスイブ。
聖歌隊が各病棟をまわって枕元に火の灯ったロウソクを置いていきました。
その盛大な儀式を、私はベッドに寝そべってぼやっと見ておりました。
死の宣の一点張り。
しばらくして、かけつけてきた家内は、「どうしたの」とニコニコ顔。
そのまま医師と別室に一悶着あった後、医師は自分で電話をかけ、家内をよびつけて入っていきました。
宣告を受けた身には、おもしろくもおかしくもない。
治療のしようがないから、病院ではなにもすることがないからといわれての退院。
なんの感慨も湧いてこないのも当然だったでしょう。
当日の日記を読み返してみると、こんなことが書かれてあります。
「あとどれくらいもつのか。12か月なのか、半年なのか。半年なら少しはまとまった時間がとれる。1年もったらどんなにいいだろう…」退院してから、私は月に1回、リュープリン注射などの治療を受けるために最初に入院していた病院に通いました。
いま思い返しても、心理的にもっともつらい時期でしたが、しかしながら、通院で受けた治療が思いのほかよく効いて、痛みを感じなくなったばかりか、心なしか体も肥え太り、肌の色艶もこれまた申し分なし。
お風呂に入った後などの気分は爽快で、こんなけっこうなこともないわな、と思っておりました。
ところが、2000年の4月、来るべきものが突然ドカーンとやってきました。
高熱が出て、頭がガンガンし、全身に激痛が走りました。
2〜3日でそれはおさまりましたが、いわゆる前立腺がんの再発にともなう独特の痛みが、その後長く持続しました。
私には、東京駅前にある八重洲観光会館の5階に日参する碁打ちの仲間がおりました。
サラり−マン時代からのつき合いで、彼らとはよく酒を酌み交わし、暇をみてはゴルフに出かけていました。
前立腺肥大症で前立腺がんの怖さをだれよりもよく理解してくれた兄や弟の金銭的な援助、情報をもたらしてくれた後輩の思いやり。
こうした助けがなければ、おそらくこの最良の治療法に生涯出合うこともなかったでしょう。
私がありとあらゆる情報をかき集め、少しでも長く生き延びようと必死の抵抗を試みていたとき、私はその中の1人が5月に亡くなったという計報に接しました。
私と同じ前立腺がん。
ホルモン療法を受けながら闘病生活を送っていたとのことですが、彼はどうやら途中であきらめてしまったようです。
死後しばらくして奥さんが私のもとを訪ねて来られ、「主人にもHさんと同じことをしてやればよかった」と泣きながら帰っていったのを覚えています。
そのころ、私が治療法の柱としてとりいれていたのがSクリニックの「免疫細胞療法」でいました。
治療を開始したのは6月。
サラリーマン時代の後輩が、紹介記事の載った新聞1ページをやぶいてもってきてくれたのがきっかけでした。
ただ、Sクリニックにはすんなりたどり着けたわけではありません。
当時、Sクリニックは開業したばかりで、E川先生もいまのようにお忙しくはありませんでした。
2〜3時間ほども長話をしていたでしょうか。
その間、他の患者の姿を1人も見なかったと記憶しております。
その長話の中で、私が「痛くて夜も眠れない」などと窮状を訴えると、先生は、同期が勤務しているという大学病院を紹介してくれました。
そこへ一時的に入院し、座薬で緊急避難的な措置をとりましたが、数分でまたたく間に痛みが引けたのには仰天しました。
大学病院で処方された薬(MSコンチンと座薬)で痛みを抑えながら、免疫細胞療法を続けておりましたが、4回目の点滴を受ける前日の8月6日、激しい痛みが再燃しました。
想像を絶するような激痛。
よりによって家内は外出。
腰が抜けて身動きがとれない私は、救急車をよぼうと食卓の上に置いてある電話をめざして寝室からの脱出を試みるのですが、距離にして7〜8メートル先にあるそこへ、ハイハイしても行き着けないのです。
2〜3時間かけてようやく食卓の下にたどり着いたものの、全身の力が抜けているため、今度は食卓の上の電話がとれません。
情けないやら、もどかしいやら。
結局、これにも1時間あまりを要し、119番通報してから救急隊員がかけつけるまでのあいだに失神しておりました。
下半身が完全に麻揮し、尿も出なくなるという最悪の状況下であるのに、私には翌日に予定されていた4回目の点滴のことが気になって頭から離れませんでした。
E川先生から「効く人は4回目あたりから効き始める」ということを聞いていましたから、なにがあっても受けたいと思っておりました。
連絡を受けてかけつけてきた家内にその希望を伝え、結果的には、Sクリニックの先生方と大学病院の先生方の双方の計らいで、無事点滴を終えることができました。
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